水子供養は埼玉の妙光寺へ

水子供養は埼玉の妙光寺
水子供養なら関東で由緒ある妙光寺へ

必勝祈願・心願成就ならびに水子供養の妙光寺では、東京・埼玉・神奈川・千葉・茨城・群馬・栃木の関東近郊の方、及び全国からの祈願・水子供養を承ります。

 祈りの里 熊井山 妙光寺


■伝説

 当山の北面は比企丘陵特有のなだらかな丘になっています。
南面を走る県道から頂上までの比高差は約30m位でしょうか。当山の西側から頂上に向かう林道を上り詰めた頃、急に視界が開けてきます。そこにはわずかばかり開墾された畑地があり、周辺は熊井に残る伝説の場所となっています。
伝説は「比企郡鳩山村熊井に熊井太郎忠基[くまいたろうただもと]の館跡がある。忠基は元暦文治の頃源義経[みなもとのよしつね]に仕えて名を青史に残した。この館跡に鎧塚とよぶ名の塚がある。伝えるところによると、忠基は義経が吉野落ちの後一時この地に身を潜めていたが、義経が藤原秀衡[ふじわらひでひら]のところに身を寄せたと聞き、彼の地に赴くにあたって塚を築き、冑鎧を埋めた。よって土人はこの塚を鎧塚[よろいづか]と呼ぶようになった。」
 その後、塚の上に愛宕社[あたごしゃ]を祭るにいたったので、鎧塚の名が失われた。社の傍らに忠基手植松という周囲九尺の老松がある。忠基の子孫は建治[けんじ]のころまで修験[しゅげん]になり心入坊と呼んで存在したが、故あって絶えた」と伝えています。

(出典『埼玉県伝説集成』(韮塚一三郎編著 北辰図書)の「中・歴史編」に「鎧塚(その二)」『武蔵国郡村誌』から引用。)

埼玉の妙光寺の秘仏

■史実?

しかしこれは伝説ではなく事実だと考えています。
何故なら当山にはその時「熊井忠基」に従った郎党の家系が檀家としていらっしゃいます。また、付近の古老によれば「戦前の頃までは確かに塚や社が在ったが、いつの頃か開墾され畑になってしまった。」といっています。
詳しい史実は史家に委ねますが、元々「熊井忠基」は「河越重頼[かわごえしげより]」(現 川越市上戸に館跡)の配下の武将であったと思われます。
「河越重頼」は「畠山重忠[はたけやましげただ]」らと「義経」が京で「木曾義仲[きそよしなか]」を討伐した戦いに参戦します。「熊井忠基」は、あの鵯越[ひよどりごえ]で有名な一ノ谷の合戦やその前哨戦の三草の戦いで突然軍功を上げ連戦連勝破竹の勢いで歴史の表舞台に登場します。「熊井忠基」が義経19人衆とも8人衆とも呼ばれるように成った頃、「義経」は「頼朝」の命により「河越重頼」の娘を正室に迎えます。それは、西暦1184年4月の事だったと「吾妻鑑[あずまかがみ]」(鎌倉幕府の公文書には記されています。
その後しだいに「義経」・「頼朝」の関係は悪化していき、やがて「義経」は追われる身となります。それからは歌舞伎「勧進帳[かんじんちょう]」などでお馴染みの逃亡生活を送る事になります。

 その時、「熊井忠基」は、この熊井の地にいます。行方不明の「義経」主従を、あるいは「義経の正室」(「郷姫」とも「京姫」とも言われている。)を必死に捜索していたに違いありません。
 更に焦燥感が重くのしかかる報がもたらされます。それは「郷姫」の父「河越重頼」が嫡子と共に「義経」を匿って(かくま)いる疑惑を受け「頼朝」に討たれてしまったからです。
「熊井忠基」は義経主従の身を案じ一心不乱に祈った事でしょう。
かくして、「義経」奥州平泉に在りの報を受けるやいなや、伝説通りの行動をとりました。
 吉野を逃れた「義経」主従は約10ヶ月間を要し西暦1187年の冬に奥州平泉の「藤原秀衡」の元に到着します。「熊井忠基」も追捕[ついぶ]の手を逃れながら苦心惨憺[くしんさんたん]の末ようやく「義経」の元に到着したことでしょう。
  それは、「熊井忠基」の願いが叶った瞬間でした。
西暦(せいれき)1189年4月「義経」は奥州衣川の館で最期の時を迎えます。「熊井忠基」が「義経」の側近くに仕えていたのは1年に満たない短い時間であったかもしれません。
しかし望んで死地へ出向いていった「熊井忠基」に悔いはなかった事でしょう。

 「頼朝」は「義経」を討伐した後、奥羽[おうう]を平定し征夷大将軍となります。「河越氏」は許され、その後200年間の繁栄を続け、弘安8年(1285年)には幕府より「但馬大浜庄地頭職[たじまおおはまのしょうじとうしょく]」を拝命しています。(川越市ホームページより)
伝説によれば、「熊井氏一族」も修験者となって建治[けんじ]の頃(1275-1278年)まで存在したと伝わっており、当山の開山時期(文永元年 1264年)と考え合わせると大変興味深いものとなります。(町指定文化財である青石卒塔婆[あおいしそとば]の銘にも弘安9年(1286年)の項がハッキリと読み取れます。)


■静かに思う

この事実を繋ぎ合わせると、熊井氏一族は「故あって絶えた」のではなく、「熊井忠基」の末裔は、この熊井の地で一部は河越氏配下の武士として、また一部は修験として繁栄し続けていたと言えます。衣川の戦いから100年後に「河越氏」の命により但馬の地に赴任していったと考えることができます。

当時の[ならい]いとはいえ「義経」の最期は誠に痛ましく、持仏堂[じぶつどう]で正室(郷姫[ごうひめ])と4歳になる娘共々、刺し違えた上に火を放ったものでした。そのことを供養したものか当山妙光寺には「地蔵菩薩」様が伝わっており、熊井氏一族が寄進したものであろうと考えられています。820年を経過した今となっては定かな事は申せませんが、820年間と言う時空間が現在もなお静かに「熊井忠基」の思いを当山に留めております。
当山では、古よりこの縁起に因み「必勝祈願」「心願成就」を祈願する寺として、ご本尊である「大日火炎不動明王」様に向かい真言密教独自の実践である護摩修業[ごましゅぎょう]勤修[ごんしゅう]しています。
また哀れな子が成仏出来ますよう「地蔵菩薩」様に懸命に供養を捧げる毎日でございます。

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