■史実?
しかしこれは伝説ではなく事実だと考えています。
何故なら当山にはその時「熊井忠基」に従った郎党の家系が檀家としていらっしゃいます。また、付近の古老によれば「戦前の頃までは確かに塚や社が在ったが、いつの頃か開墾され畑になってしまった。」といっています。
詳しい史実は史家に委ねますが、元々「熊井忠基」は「河越重頼」(現 川越市上戸に館跡)の配下の武将であったと思われます。
「河越重頼」は「畠山重忠」らと「義経」が京で「木曾義仲」を討伐した戦いに参戦します。「熊井忠基」は、あの鵯越で有名な一ノ谷の合戦やその前哨戦の三草の戦いで突然軍功を上げ連戦連勝破竹の勢いで歴史の表舞台に登場します。「熊井忠基」が義経19人衆とも8人衆とも呼ばれるように成った頃、「義経」は「頼朝」の命により「河越重頼」の娘を正室に迎えます。それは、西暦1184年4月の事だったと「吾妻鑑」(鎌倉幕府の公文書には記されています。
その後しだいに「義経」・「頼朝」の関係は悪化していき、やがて「義経」は追われる身となります。それからは歌舞伎「勧進帳」などでお馴染みの逃亡生活を送る事になります。
その時、「熊井忠基」は、この熊井の地にいます。行方不明の「義経」主従を、あるいは「義経の正室」(「郷姫」とも「京姫」とも言われている。)を必死に捜索していたに違いありません。
更に焦燥感が重くのしかかる報がもたらされます。それは「郷姫」の父「河越重頼」が嫡子と共に「義経」を匿って(かくま)いる疑惑を受け「頼朝」に討たれてしまったからです。
「熊井忠基」は義経主従の身を案じ一心不乱に祈った事でしょう。
かくして、「義経」奥州平泉に在りの報を受けるやいなや、伝説通りの行動をとりました。
吉野を逃れた「義経」主従は約10ヶ月間を要し西暦1187年の冬に奥州平泉の「藤原秀衡」の元に到着します。「熊井忠基」も追捕の手を逃れながら苦心惨憺の末ようやく「義経」の元に到着したことでしょう。
それは、「熊井忠基」の願いが叶った瞬間でした。
西暦(せいれき)1189年4月「義経」は奥州衣川の館で最期の時を迎えます。「熊井忠基」が「義経」の側近くに仕えていたのは1年に満たない短い時間であったかもしれません。
しかし望んで死地へ出向いていった「熊井忠基」に悔いはなかった事でしょう。
「頼朝」は「義経」を討伐した後、奥羽を平定し征夷大将軍となります。「河越氏」は許され、その後200年間の繁栄を続け、弘安8年(1285年)には幕府より「但馬大浜庄地頭職」を拝命しています。(川越市ホームページより)
伝説によれば、「熊井氏一族」も修験者となって建治の頃(1275-1278年)まで存在したと伝わっており、当山の開山時期(文永元年 1264年)と考え合わせると大変興味深いものとなります。(町指定文化財である青石卒塔婆の銘にも弘安9年(1286年)の項がハッキリと読み取れます。)